新しくできたブーランジェリーで、ほしいちじくのパンと濃いめのエスプレッソを買った。

海風が潮のかおりをのせて、鼻先をふきぬける。空がいちだんとひろくて雲の伸びあがる、おだやかな日だ。そばかすのかわいい女の子が店番をしていて、チャオ、としろい指をひらひらふってくれる。この間ランチに入って、パスタがおいしかったリストランテの店主も休憩に来ていて、彼はオレの乗ってきたオレンジのフィアット・パンダをほめてくれた。

「おまえさんのかい?」と聞かれたので、「まさか!おじさんのだよ。貸してくれたんだ」と人好きのする顔でわらってみせる。

隣町の坂の多い住宅街、「ぶどう畑を越えたあたり」に居候している、「語学留学生の『ツナ』」としては、イタリアで自分の車を乗り回すなんてぜいたくはおかしい。すこしでも健やかな学生に見えるよう、のりの効いたYシャツの肩をすくめ、白い歯をならべてみた。

他人との距離が近いここでは、なによりも人当たりの良さが、波風立てない穏やかさがこのまれるのだ。

現にビールっぱらの店主は、「たまにはいいもん食って、俺みたいにふとれよ」とウィンクして、自分の買ったグリッシーニと彼の店のチケットを、オレの紙袋の中に押し込んだ。パンの包みが2つにふえた。

 

オレは鳥のようにパンをついばみ、運河のふちを歩く。

太陽のおりこまれた潮風に、どこからか流れてくるトマトオリーブの香りが混じった。

あまいバターのついた指をなめていると、急に並盛の風景が恋しくなる。今ではもう、とおい場所になってしまった懐かしいふるさと、並盛。

おちついたら帰ろう、きっと帰ろう、そう思いながら、気がつけばまた新しい夏が始まろうとしている。

パンをかみしめると、いちじくのかけらが歯の奥でぎしり、と鳴った。シロップが口いっぱいにひろがる。

かりかりと小さな種の音を楽しみながら、商店街で買い食いをして、獄寺くんや山本たちとどこまでも歩いた、夏の夕暮れを思い出した。学校の脇から海にむけて、ながれていたほそい川。さみしげな線路のおと。あのときくわえていたのは、あんこの薄い たい焼きだったけれど、今はここでは手に入らないあの焦げたしっぽの端や、甘く舌を焼くあずきの感触が懐かしかった。

 

ごつごつした石畳を足の裏で感じながら歩いていると、陶器みたいになめらかな体躯の犬に吠えかかられる。

あいかわらず、犬は苦手だ。

「だめだよ、ネーロ」

犬の傍らに隠れてしまいそうな小柄な少年が、リードを引いてなだめる。

犬を抱きかかえるようにして黙らせた彼は、チャオ、と困った顔ではにかみながら、こちらに笑顔をくれた。オレもにこりと笑みを返す。ふいに、まき毛のやんちゃ坊主を思い出した。うちのファミリーにも、ちょうどおなじくらいの子供がいるのだ。

「ずいぶん大きな犬だねぇ」

「うん、ごめんね。前はもっといいこだったんだ」

ぱたぱたと犬の首筋を叩いて、少年が言う。

「なにかあったの」

「パッパがね、わるい奴らに撃たれちゃってから、すっかりわるいこになっちゃったんだよ」

少年は青い目を伏せながら、犬の首に頬をよせる。ブルネットとそろいのまつげが、いじらしく揺れていた。

恐らく猟犬だろう、すらりとした筋肉の相棒は、彼に頭をなでられながらもこちらに牙をむき続けている。

「そのわるいやつは、どうなったの」

「しらない。・・しっちゃだめだって。しらないでいるのがしあわせなんだって」

 

高らかに吠え始めた犬を抱きしめ、少年はうつむく。この地方独特の、くせのある水のかおりが、強く鼻をついた。「・・ごめんよ、いやなことを思い出させたね」「・・いいんだ。河のむこうのことは、だれにもどうすることもできないんだよ」

痛みを目の奥に感じ、オレは眼球を湿らせるようにひとつ、ゆっくり瞬く。少年の姿がうすくぬれ、するりとクリアになる。

「―――それ、だれが言っていたの」

「パッパだよ。パッパの言うことはいつだって正しいんだ」

少年は真っ直ぐな瞳でオレを射抜いた。迷いのない、いい目だ。

 

「きみのパッパは、立派なひとなんだなぁ」

「そうだよ。すごい漁師だったんだ。いまはお空のうえにいる」

 

いちじくのパンをひとつ少年にやり、オレはまた海岸通りを歩く。幅のひろい河を挟んで対岸には、ひとまわり大きな商業都市が広がり、車や工場があわただしくひしめいているのが見える。対して、こちらに広がるのは、昔ながらのたたずまいを残した、漆喰のつらなる のどかな家々だ。なだらかな坂でつながれた建物たちは、おちついた色合いの煉瓦をかぶり、うつくしく青い空の下をいろどっている。

河には重厚な橋が、その幅ぴったりにおさまり、向うとこちらを長い脚でまたいでいた。

 

どこからか、ギターの音色が聞こえてきている。こちらの町をながれる時間は、ゆっくりとやさしい。

日かげでは、白い壁に青みがかった影が落ちていた。路地に入ると、よく日にやけたおばあさんたちが世間話をしている。みな、さまざまな刺繍がほどこされた、ひらひらとかわいらしいスカーフをかぶっていた。まるい身体にまとった服は、サスペンダーにしまもようで、オレはマトリョーシカの人形たちが会議をひらいているようすを想像しておかしくなった。

せまい道で、お互い笑顔をかわしあう。つやつやの頬をひからせて(この地域のひとはみな、肌がきれいだ)、おばあさんがやわらかく目を細める。

「・・おや、どこかであったかしら?」

「いいえ、たぶん初めて、じゃないかな」

ころころのおばあさんたちは、オレの背よりまだ小さい。彼女らは、オレの髪や目が気になってしかたがない様子だ。もともと色のうすい身体だったが、ここに来て太陽をあびているうちに、どんどん色が抜け、今では国籍を名乗らないと分からない、何だか不思議な人間になってしまった。

いつもするように、かんたんに留学生のかたがきを告げると、納得がいったと深い笑みを浮かべて、彼女らはうなずきあった。

「なら、これをもっておゆき。ここのりんごは、おいしいのよ」

ひとりのおばあさんが、うでに抱えた籐のかごから、つややかなりんごを差し出す。

「あんたがここを好きになってくれますように」



包みの中に、りんごがふえた。

 

坂道をのぼってゆくと、サルビアをまとわせた窓から「ツーナ!」と声がふってくる。みあげると、はためく洗濯物ごしに、かっぷくのいいおかみさんの姿が見えた。

「この前はありがとうねぇ。おかげで、ジャーダもすっかり元気よ」

玄関から出てきた彼女は腕にかかえた黒猫を、オレに抱かせてくれる。

宝石の名前をもらった猫は、ひすいいろの目でオレをつるり、とひとなめ観察したあと、オレの肩を蹴り、すぐにどこかへときえていった。

「・・きらわれちゃった」

「あはは!あんだけふるえていたのに、げんきんなものね!」

猫は、以前運河の中に落ちていたのを、オレが拾いあげたのだ。猫好きのおかみさんが世話をやいてくれ、彼の毛並もずいぶんよくなったとおもう。ここでは、猫は家にしばられない生き物で、自由に街を闊歩している。

「これねぇ、お礼よ。勉強のあいまにでもたべなさい」

お礼をいわなくちゃならないのは、猫をひきとってもらったこっちのほうなのに、彼女はカスタードのいいにおいのする包みをオレにもたせてくれた。れんげのパイを焼いたのだという。濃いバターの湯気がたちのぼるあたたかな紙づつみに、鼻先をうずめて礼をいう。花のみつのかおりがしている。

手さげはパイでぱんぱんになった。

 

しろく太陽をはねかえす坂道をのぼりきる頃には、背中に汗がにじんでいた。

あいかわらず、運動は苦手だ。

息を弾ませてふりかえると、赤い煉瓦がにじむ陽炎の先に、空をうつす運河。その向こうに、ひとまわりおおきな建物の街が黒煙を上げており、さらにむこうの地平線には、うすく海が広がっている。かもめが高いこえで鳴きながら、海の濃い青に吸いこまれていった。軽い砂が舞い、くちびるを乾かす。

奇妙にゆがんだ、美しい国だった。

ブナが陽光のなか、まだらに影をおとしている。ひとけのない、ちいさなバールがみえたので、すこし休憩することにした。色あせた白とみどりのパラソルがはたはたと風にそよいでいる。木漏れ日のここちよい外のテーブルにつき、ねむたげなまぶたのカメリエーレにミルクティーをたのむ。

 

めをつむって、肺いっぱいに海風を深呼吸したところで、

かちり。

―――額にかたい金属がおしあてられる。

ほんのすこしの力を込めただけで命がふきとぶ、この感覚には、すっかりなれてしまった。

 

「チャーオ、ボンゴレのボス。・・・ひとりでお出かけとは、いい度胸じゃねぇか」

 

地をはうような声に、黒いシルエット。肌につめたく突き刺さる、息がつまるほどの殺気。はりつめた空気に、気を抜くとめまいをおこしそうだ。

オレはふぅ、とためいきをついて、わらった。

 

「――――――なんだ。今回は、もうちょっといけるとおもったんだけど、な」

 

「・・ぶっころすぞツナ、てめぇ」

 

目のあいだにまで下ろされた銃口が、ごり、と眉間をえぐってくる。

「いてて・・だめだよ、リボーン。かわいい少年はそんなことするもんじゃないよ」

痛みに眉をよせてみあげた先に、ボルサリーノをかぶった細身のスーツの少年が立ちはだかっていた。特徴的なまっくろの髪をオールバックにして、小粋にととのえている。同じ夜の色をした瞳が、怒りでひくついていた。こめかみに青筋が浮いているのも、気のせいではないだろう。

「・・てめぇ・・・いったいこれで何度目だとおもってやがる?バーリ、トリノ、フィレンツェ、カターニャ―――オマエのきまぐれなお遊びのせいで、ボンゴレがどんだけひっかきまわされてるか、しらねぇとはいわせねェぞ」

限界まで押し殺し、低めた声が、怒りを隠しきれずにかすれる。この最強の名をほしいままにしているヒットマンが爆発しないのは、外だということに配慮しているのと、オレの立場をふまえてのことだ。オレが十代目を襲名してはやくも10年ほど、ふたたび成長をはじめたこの美しい少年はいつしか、いままで暴力でだまらせていたオレの立場をのみこみ、顔をたてることをおぼえた。

しかしそれでもなお、ふれれば焼け焦げてしまいそうな怒気をまとわせてこちらをにらみつけてくる彼に、今日こそはもうだめかも、と思いながら、小さく降参のポーズをとる。

「・・・わるかったよ・・ ほら、カメリエーレがきちゃう。とりあえず すわって、リボーン」

眉をさげて、むかいの椅子を指さすと、ひときわ鋭くこちらをねめつけた後、漆黒の少年は派手に舌うちをした。そのまま苦い顔で、なげやりに椅子に身をあずける。やすものの金属が、みしりときしんだ。

彼のほそい脚が机のうえになげだされるのをみて、「ぎょうぎわるい・・」とつぶやくと、今度こそ瞬殺されそうな目で射ぬかれる。

「――――ったくてめぇは!しかもまた、あんな派手な車買いやがって!」

口を歪めて、忌々しげに少年は吐き捨てる。そんなに眉を寄せたら、きれいな顔がだいなしだ、オレはぼんやりと彼をながめながらつぶやいた。

「だって、ぬけだすのに足がないんだもん」

「ったりめェだ!どこにボスの脱走を手助けするやつがいるかってんだ」

「ぜんぶポケットマネーから出してるよ。ボンゴレには迷惑かけてない」

「そういう問題じゃねェ!」

がぁん!とスチールの机が叩き割られんばかりの強さでけられる。おおきく傾いだパラソルを、オレは慌ててひっつかんだ。

「しかも、―――なんだその食いモンの山は!オマエ、民間人と接触すんのがどんだけあぶねェ立場にいるか、まだわかっちゃいねぇようだな?」

いい加減にしろよ、このバカボスが。すずしい切れ長の目元がつりあがり、彼はオレのシャツの胸をつかみあげる。のどがぎゅっとしまった。オレは ぐえ、と舌をだし、くびを絞める彼の腕を叩いてギブアップを申告する。

「・・でも、みんな親切なんだ。オレのこと、学生だって信じてくれるんだよ。―――ふふ、バールに寄ったら、酒だって止められるんだ。いつになったら、オレ、もうとっくに成人してるんだって気づいてくれるんだろう」

くすくす笑いながら言うと、黒髪の家庭教師は険しい目のまま、あきれた、とばかり 今度はオレを突き放した。氷のようにくらい瞳孔が、ひややかにこちらを一瞥する。

「―――てめぇのことだけじゃねぇ、下手打ちゃそいつらにまで危害が及ぶんだぜ、ツナ。オマエが買って使った車だって、アシがつかねぇ様に全部つぶされんの知ってんだろ。それとおなじこった」

腹から絞り出すようにおとされた彼の声を、坂道を駆けあがってきた海風がさらってゆく。店の外につるされたウィンドベルが、澄んだ音をたてた。

「・・・わかってるよ」

オレは、すこし言葉をのみこむ。オープンテラスのくすんだアルミ机には、おぼろげに俯いた自分の顔が映っている。

「―――動物は敏感だ。血のにおいが分かるんだね。最近、好かれたためしがない」

ふい、と自嘲気味にわらうと、のどの奥のかたまりが胸につかえて苦しくなる。感情はおもてに出さないよう、あらゆる訓練をうけてきたけれど、ふとしたときに自分をおそう感情の渦には、いまだうまく抗うすべがわからない。

 

「―――けど・・」

「けれどもクソもねェんだよ、“ボス”。いいわけなんざ、いらねぇな」

ボルサリーノのつばを引きおろした闇のこどもは、ぞっとするような冷徹を声にまとわせて、オレを制する。オレはまた少しほほえんで、彼を見上げた。イタリアの空は、こんなときにでもあきれるくらい美しい。

「・・・ごめん・・ でも、みてみたいんだ。この目で。自分がくだした決断で、いったいどんなふうに世界がかわっていくのか」

 

ギイィ・・・キュルル・・・

ちかくのブナの木のてっぺんに、はねの大きな海鳥がとまって、しきりに海を呼んでいる。きつい日差しをあびながら、ゆっくりと水平線に向かってはばたきをくりかえす。まぶしくふり仰ぎながら、ぼんやりその影をみていると、時間が止まってしまったように感じた。できのわるいからくり人形のあそびを、じっと見ているようだ。

「――――・・で?・・・どうだったんだよ、今回は」

永遠のような長い沈黙のあと、オレの家庭教師は静かに吐きすてた。けだるげにバールで頬づえをつく様子は、年相応に彼になじんで見える。オレはまた、ふ、と短い溜息をついた。

「―――――結果から言うと、惨敗、・・かな。・・・まさか、こんなにも結果が出てないなんて、おもわなかった。」

前にすわった少年は、ちらりとオレを見た。だまったまま、黒目がちな切れ長の双眸だけが、オレを射ぬく。

目だけで促され、オレは続けた。

「あの金も一体どこに使われたのか、見当もつかない。協定も変わってないし、こちらの住民はむしろ歩みより自体をあきらめかけてる。民間人にも死者が出てるし、けっしていい状況じゃない。・・・国は、組合との衝突をこわがって、手も出してこないし。・・・唯一の救いは、ここが、美しいままってことかな」

「・・だから、デタント自体はディーノに任せとけって言ったろ。」

できのわるい生徒をさとす口調で、少年が溜息をついた。むかしから、こうして先生に溜息をつかせるのはオレの専売特許だ。

「―――あいつの言う通りになっただろ、ツナ。オマエの策は生ぬるい。金さえ与えれば、あとはうまくいくなんて、性善説にもほどがあるぞ。金なんて、どれだけ苦心してない所に与えようとしても、どういったカラクリだか、たんまりある方に向けて流れちまうのさ。結局は上のやつの腹が膨れて、それで終わりなんだよ」

苦々しく顔をしかめ、少年は眼下にひろがる街並みを見わたした。彼は、みためはちいさなこどもだが、頬におとした影が静かでさみしすぎる。大人にあこがれ、背伸びをするこの年頃の少年とは、まとう空気の深さがまるでちがった。幾人ものいのちを糧にし、それを生業としていきてきたもの特有の醒めた闇が、そこにはあった。

銃器に常にふれているにもかかわらず、彼の指はすんなりとしろく、やわらかだ。おそらく、銃はスプーンやフォークと同じように日常的に手になじみ、彼の手を固めることもないんだろう。

 

「・・・で、どうすんだよ、ボス。この件に関しては、ディーノに一任するか?」

少年の高いこえが、オレに問う。やわらかな指が、テーブルのうえでゆるりと組まれる。こちらをうかがうように、くっきりとした黒目がうごき、まつげの下からオレをうつした。なつかしいな、とおもう。むかしから、オレがあきらめるたびに、根気も力も、能力も足りないオレを、うんざりしながら眺めていた、彼の目だ。

何も理由がないことではなかったのだ。オレはいつしか、リボーンのそういったたぐいの目を見ることが、ひどく怖くなっていた。臆病なオレは、何もできない「ダメツナ」のレッテルをはられるたびに、彼のためいきに肩をびくつかせ、彼がオレに感じた絶望に絶望し、そうしていつのまにか、

「――――いや。こんな中途半端でおわれないよ」

りんとした自分の声に、オレはじぶんで驚いた。そして、すこしわらう。

―――そう。いつのまにか、こんなにもまけずぎらいな大人になってしまったのだ。オレはわらって、目の前の彼を見つめた。自分のなかに、こんなにもゆずれない強い思いがあったなんて、昔のオレには気付けなかっただろう。

「・・・ディーノさんなら、こんなところ歩いてるだけで目立っちゃって、しょうがないだろうけど」

ブロンドで長身の兄弟子のことを、思い浮かべながら口にするなり、「アイツにンなこと、させるかよ」と眉をしかめた返事がかえってくる。そりゃそうだろう。今や知らぬものなどいない、キャバッローネの美丈夫が実際に街を出歩いているなんて、それこそあっという間にひとだかりが出来るに違いない。その中から、だれともしれない人間のジャケットの影から、無数の銀色の筒がのぞくのを、オレは容易に想像することができた。オレは、痛みをちらすように、目をつむる。

「でも、オレには、それができる。―――オレの家は、別に裕福でも、権力者でもなかった。だから、みんなと同じ高さでものごとを見られる。オレは目立たない。オーラがなくて、覇気もない。オレは“普通”だ。

―――これが、オレの強み。・・だから」

目を見開いた。あざやかな緑が塩気のまじる風にそよぎ、赤く熟れだした西の空に溶けだそうとしている。一日の終わりの太陽をあびて、目の前に広がる風景いちめんが、ガラスのようにきらきらかがやいていた。

「オレにしかできないやり方で、世界をいい方向へ、曲げてみせる」

言い切ると、こちらをじっと見ていた少年は、整った眉をもちあげた。空気がふるり、とふるえる。

「・・・ふん、言うようになったじゃねぇか」

すぐにその目はおおきなボルサリーノの下に隠れ、みえなくなったが、うすく形の良い口元は夕日の中、わらっているようにも見えた。ぱたぱたとタブリエをはためかせ、カメリエーレが飴色のカップにミルクティーをみたして運んでくる。彼をみじかい口笛で呼びとめると、少年はくろい帽子のつばをすこし持ち上げた。

「Un cappuccino. per favore.」

Si、と微笑み、ねむたげなカメリエーレは店に戻ってゆく。オレはそれに、目をまるくした。

「カプチーノ!めずらしい!そんなもの、おまえがたのむなんて」

オレがほんのこどもだったころから、この少年・・・当時は、全くの赤ん坊だったが、彼は、しんじられないような濃いブラックコーヒーや、スピリッツをこのみ、うっかり飲んだ自分を絶句させていた。彼の行為とはおもえない。そんな甘いものを!開いた口がしまらないオレににやりと笑いかけ、最強のヒットマンはすっきりときれあがった瞳を細めてみせた。

「たまには甘ェもんでも口にしたくなったんだよ。・・・ま、たまには、な。」

 

時代を重ねた、おもたげな鐘のうちならされる音がする。青銅色をした音が、こちらの町にもあちらの街にも、ひとしく夕刻のおとずれを告げていた。

「・・・ねぇ、リボーン。このあと時間ある?」

オレは手元のカップをわきに押しやり、元家庭教師の顔をのぞき込んだ。しろい家や石畳に反射する夕日で、彼の瞳がうるんで見える。

 

「―――あのフィアットでおくるよ。ちいさいけれど馬力のある、かわいいやつだよ。リストランテでめしくって、かえろう」

机においた大きな紙袋から、しゃれた模様の印刷されたチケットをひっぱりだして、オレは彼の目の前に置く。手ざわりのよいエンボスの厚紙に、セピアのインクで店の名前がおどっている。少年はそれを見遣ると、ふ、と鼻をならした。

「三ツ星じゃねぇか。オマエ、けっこういいモン持ってるな」

くちびるを撫でて、にぃ、とわらった彼に、オレも笑いかえす。

「権力もなんにも振りかざさずに、ともだちとして、もらったんだ。」

たまには、こういうのもいいだろ。

悪戯っぽい目で彼をのぞくと、しょうがねェな、とでも言いたげな顔で、彼は肩をすくめてみせた。

 

海へとふいてゆく、空気のにおいが変わっている。いつのまにか、風向きがかわったのだ。ブナの木の海鳥は、坂をかけおりる風にのって、すぅ、と夕空にきえていった。

「もうすぐ夕暮れだ。あの橋が、すみれ色の空にしずんでいくところを見よう。ならんでるライトが貴婦人のくびかざりみたいでね、綺麗なんだよ」

オレは夕日の向こう側を指さす。運河にかかる大きな橋は、ちいさな照明灯から順にともし、はやくも夜の装いに着がえようとしていた。水平線にさしかかった太陽のとおいところから、すこしずつ夜の藍が迫ってきている。オレたち夜を生きるものが、自然に背筋をのばせる時刻がやってくる。

「オマエ、帰ったらしばらく軟禁だぞ」 

せいぜい自由をたのしんどけよ、と吐かれた言葉に、うへぇ、と顔をしかめた。

 

ここは大きな街だ。歴史と進化と、大きな二つの流れに翻弄される、歪んだ美しい国だ。

オレのいきる、第二の故郷。

青い薄墨の刷かれた空の中、橋のてっぺんにひとつ、星のようなひかりがともった。