こんな時こそ、風が止まればいいのに。

 

ツナさん。唇にのせると、その小さくふるえた響きはかけらも残さず、雑踏の逆巻く風の中に消えてしまう。ツナさん。ツナ。あたしは壊れたおもちゃみたいに、だいすきな人の名を何度もくりかえす。ついさっきまで、この唇がふれていた人の名前。もう二度と、会うこともできないだろう、初恋のひと。情けないくらいに震えている唇に触れると、わずかなあまい疼きと、しびれるような熱が薬指につたわった。

――――ばかみたい。あたし、ばかみたい。

苦しく胸を抱きしめながら、あのひとの消えた人ごみへとにじんだ視線を向ける。絵の具をごちゃまぜにぶちまけたみたいな、スクランブルの色だまりの中には、けれどもう、だいすきな背中を見つけることはできなかった。

 

 

10年越しの恋だった。

初めて会ったのは、小さな町の学校で。あのひととあたしはどういうわけだか同じ年の中学生で、かよう学校も趣味も、友達だって違うのに、なぜだか出会ってしまった。

地図の端っこにつつましくのっているような、小さなあたしたちの町、並盛。特産物もこれといった目玉もない町は、あのときのあたしたちにとって途方もなく大きい舞台装置で。あたしたちはその中できらきら光る毎日に胸をおどらせ、たっぷり遊んで、勉強をし、たまには、そう、わるいことだってして、生きていた。

あのひとは同級生の中でも頭一つ分、身体が小さくて。ぶかぶかの制服を持て余すようにして着ていた。周りにいた仲良しの男の子たちがみんな大きかったから、きっとそれは尚更目立ったんだ。だけど、横に並ぶとそんな彼の目線は一段、あたしよりも高くて。川へ落ちたあたしを抱き上げた彼の腕はすごくつよくて。あぁ、男の子なんだなぁって思ったら、胸の鼓動がおさまらなくなった。

風に揺れる優しい茶色の髪や、色素の薄い瞳。きゃしゃな胸が意外とかたいんですよ、ってあたしだけが知っているのが誇らしかった。運動音痴で、勉強だってからっきしだったのを知っている。みんなから「ダメツナ」って呼ばれて、いじめられていたことも。でも、その傷だらけの手のひらは、だれよりも優しさを知っていた。

太陽に透けると薄く光る、彼のしろい肌。純粋な日本人とは少し違う、身体にまとう色彩。まつげが長くて、日焼けしない頬に木漏れ日みたいに影を落としていた。傷ついた目で、太陽みたいに笑う。「またやられちゃった」ってわらう。

―――そんな彼が、ときおりまっすぐに前をにらみつける瞬間があった。信じられないくらいの強い光をもって。

人の影に隠れがちな彼が、その小さい体のどこにしまっていたのだろう、湧き上がる炎のような勇気を振りかざし、かないもしない大きな力に立ち向かってゆく。

そんなとき、彼のうしろには、いつだって傷ついて助けを求める人の姿があった。あのひとの周りにはなぜだかいつも、こまった人たちがたくさんいて。ぜったいむりだって、届かないってわかっていても、彼はあざだらけの腕を必死で伸ばし、ちいさな体で、そんな誰かを抱きしめてやろうとしていたんだ。いつも、いつも。

胸が震えた。

殴られてばかりだった少年はひとの心の傷に誰よりも敏く、あたしは、そんな彼にずっと恋をしていた。彼はあたしの、ヒーローだったのだ。

 




八月の終わり、柔らかい風をからだにからませ、彼は待ち合わせの喫茶店にやってきた。それはごく普通の、小さなレストラン街の一角で、その日はとっても暑くて。ビルや街路樹で薄まった日差しがぽつぽつとアスファルトににじんでいた。

くすんだ扉にかけられたカウベルが、からん、と鳴る。外のまばゆい日差しと、町の喧騒が一瞬 静かな店内に滑り込んだ。光を背負ったシルエットに、あたしははっとなる。

 

行きかう車の音が、遠のいてゆく。

小柄だけれど、すらりと伸びた背。太陽に透ける、茶色の跳ね髪。

 

「ハル」

 

こちらを認めて、うれしそうに手をあげた彼に、息がとまる。

薄い生成りのシャツに、ゆるく羽織ったジャケット。タイトな黒のパンツが、細身の脚にぴたりとそって、そのきれいな形を浮き立たせていた。すこし額に汗を浮かべた彼は頬をゆるめ、そのはしばみ色の瞳をなごませる。

 

「ごめん、待たせたね―――ひさしぶり」

「――――ぁ・・・」

 

のどが詰まって、声が出なかった。前よりもずっと、すっきり丸みの落ちた頬。そのぶん陰影がはっきりとして、とおった鼻筋と、優しげにほそめられるうつくしい目。

一年ぶりに会う彼は、びっくりするほど大人になっていた。たぶん、血がそうさせるんだろう。彼の体に混じった、遠い国のわずかな遺伝子は、まるで忘れ形見のように、成長する彼にそののびやかな造形を与えていた。

すこし困ったようにゆれる瞳だけが、むかしと全然変わらない。あぁ、ツナさんだ。あたしはもう、うれしくてはずかしくて緊張して、彼が席につくまでの間、その姿をじっとみつめることしかできなかった。真っ赤になった頬が、やけどしたみたいに、ひりひりと痛い。

 

―――連絡をくれたのは、彼のほうからだった。

昔、あれだけ身近なひとだった彼は、今や幾重にも張り巡らされたネットワークをたどり、ルートが分からないように巧妙に細工された手段で連絡を取り次いでもらわないと、声すらも聴けない場所に行ってしまったから。会うなんて、それこそとんでもないことだ。
正規の手続きを踏むなら、きっとスケジュール調整のため何か月も待たされて、びっくりするくらいの警備の中で、おおきなビルを貸し切って(ひょっとしたら、このひとの組織の人たちはそのために、ビルひとつくらい買ってしまうのかもしれない)、厳重なボディチェックを受けて目隠しされて場所が分からないように連れまわされて、やっと会えたと思ったら制限時間は5分、なんていうのが普通なんだろう。

あたしは想像する。映画でしか見ることのなかった、うすぐらくて硝煙のにおいにまみれた世界を。やさしい彼からは最も縁遠く、そぐわない世界を。できるだけ恐ろしいものを想像しようとしてみるけれど、いつだってそれは穏やかな思い出に邪魔されて、何だかうまくいかなかった。

 

そう、こうしてまた彼に会うことができたなんて、信じられないことなのだ。

今では、ファミリーを統率し、外交のため世界中を飛び回り、息つく暇もないほど多忙な彼。連絡をくれたあの日、何重にも回線を重ねた遠い国からの彼の声はすこしくぐもって、けれどもあたたかくて優しい響きは、昔とおんなじだった。喉の奥で毛玉をころがすような、優しくてふわふわと耳を撫でる彼の声。

 

『ハル。どうしてもしなきゃいけない話があるんだ―――会って、もらえないかな』

 

だから、彼の柔らかい声にからまるほんのすこしの悲しみに、あたしは気づいてしまった。

あぁ、とうとうこの日が来たのだと、そのとき受話器を握りしめながら、ぼんやりと思った。

 

 


「忙しいのに、ごめんね。」

氷のたっぷり入ったグラスに唇をつけながら、彼が言う。とっさに首をぶんぶんと振った。なにいってるんです、ハルなんて!よっぽど忙しいのはあなたのほうなのに、きっと寝る時間もないほどなのに。当のこのひとはのほほんと笑いながら、おいしそうに冷たい氷水をのみほしている。

「―――来年は大学、卒業なんだよね?はやいなぁ」

すごいよね、ハルは。首をかしげながら微笑む彼に、あたしはもどかしい気持ちになる。言葉にできなくて、ただただ首をよこに振った。あたしなんて全然すごくない。遠い遠い国で、一生懸命戦っているこの人のほうが、何千倍もすごいもの。

「ツナさんこそ、大変なのに、日本に来てくれて―――ハルは、うれしいです。会えるなんて、思わなかったから」

小さな声でつぶやくと、彼はまた「・・ごめんね」といって、泣きそうな顔でほほえんだ。

 

 

二日ほど前、彼にそっくりな容姿の東洋人が、仰々しいほどの護衛をつけて西へと旅立ったのを知っている。今日、たしかヨーロッパの端のほうでは大きな会合が開かれていて、そこで何食わぬ顔をしてその男が、ドン・ボンゴレとしてふるまっていることも。

「ただのパーティだから、おとなしくしていればいいんだ。俺なんかよりよっぽど『彼』のほうがうまくやってくれてるよ」

あたしが、彼が出席するはずだったそのパーティのことを尋ねると、数人はいるという、彼の「影」である人間のひとりを指しながら、ツナさんは眉を下げて笑った。

やさしく微笑む彼は、今や押しも押されぬイタリアいちのマフィアを率いるボスだ。自信なさげに弱音を口にするけれど、実際、いまのヨーロッパでは社交界で彼ほど名のとおったひとはいないのだという。やわらかな物腰でひとの警戒心を解くのがうまく、その笑顔となめらかな口調で、気づけば相手をこちら側に引き込んでしまうのだと。そう、誇らしげに話していたのは、ナイフみたいな髪の色をした彼の親友だったと思う。

話し合いの席では流暢なイタリア語をあやつって交渉をまとめてみせるんだって。
そうやって、少しずつばらばらだったイタリアのマフィアグループと協定を結び、同盟を組んで、まとまった大きな共同体を作ってきたんだって。
(彼はいつも笑顔だけれど、話しているうちにふと、額に銃口を押し当てられているようなつめたい予感が背中に落ちることがある。もちろん、どこにも銃なんてないんだぜ。そういっていたのは、右手の人差し指のない、顔中ひげだらけの熊みたいなおじさんだった。あとで、そのひとが南シチリアの武器商の総元締めなんだって聞いた。)

 

それってなんだか、さみしい。

寂しくないですか、ツナさん。

 

あたしは昔のことを思い出す。英語が赤点ばっかりで、あたしに泣きついていた彼。長い単語が覚えられなくて、涙目になっていた彼。あたしのツナさんはどこに行っちゃったんでしょう。テーブルにおかれた彼の長い指を見ながら、思い出す。

だけど、目の前のきれいな男の人は、まぎれもなくあたしの初恋のひとで。その交渉術に長けているらしい唇で、ぎこちなさそうに最近のあたしの周りのこととか、みんなの様子だとか、聞いてくる。飾らない言葉で、どもったりつっかえたり、何回もしながら。
あたしはそれに、今聴いている音楽のことだとか、中学校に通うようになったおちびさんたちのことだとか、並盛に新しい図書館ができたことだとか、ていねいに答えた。うれしかった。

 

ふるいつくりの喫茶店の中は、しずかで、飴色の電燈がそっとテーブルに光を落としていた。使いこまれたぶあついテーブルに、おそろいの椅子。こがした果実のような、木の匂いがする。
天井につけられた大きな羽が空気をかきまわしていて、真夏なのに店内はしっとりと陰って、涼しい。

ときおり、まばらなお客が出入りするときだけ、外のざわめきとふわりとした熱気が鼻先をかすめてゆく。
ようやっと運ばれてきたコーヒーは、舌の上で優しく苦味がほどけ、ひとくちで、おいしい、と思えた。コーヒーはあまり得意ではないのだけれど、その琥珀色の飲み物はていねいにつくられた味がして、とても好きだと思った。
きっと知る人ぞ知る、って感じのお店なんじゃないかな。あたしはこのお店を待ち合わせに指定してきた、彼のことを見つめる。

けれど、あたしの砂糖たっぷりのものとちがって、彼がブラックのまま楽しんでいるのにきづいて。なんだか複雑な気持ちになった。

―――むかしは、甘いもの大好きでしたよね、ツナさん

あたしは、汗をかいた水のグラスを弄びながら、湿ってゆく指先をじっと見ていた。ケーキを一緒に取り合いしたじゃないですか。おちびさんたちにお菓子を台無しにされて、半泣きになってたじゃないですか。

 

・・・ちがった、のかな。

 

そんなことなんて、ほんとはなかったんでしょうか。

 

コーヒーはおいしくて、すぐに飲めてしまったけれど。最後に残った一口が、のみほせなかった。

この時間に、終わりが来てしまうのが怖かったんだ。

 

何度目かの笑いがふたりの間で生まれた。最近の大学でのはやりごと。イタリアで彼が見つけた、おかしなおもちゃ。歳月を埋めるみたいにして、二人で他愛のない話を次から次へと、した。

お腹がむずむずとこそばゆくて、胸がふわりとおどって。昔の、あの小さな中学校の日々に逆戻りしてしまったように感じた。

 

あたしの指先は、いつの間にかふやけてしわしわになっている。どれくらい、時間がたったんでしょう。ハルは、あなたを引き止めていて、いいんでしょうか。きになるけれど、時計がこわくて見られない。彼に、時間を思い出させるような行為はしたくなかった。涙を浮かべて、あたしのバイトでの失敗談に笑う彼を、じっとみつめる。それ、少しオーバーすぎるリアクションじゃないですか、ツナさん。ハルは、お釣りを間違えたって言っただけなのに。

彼はやさしい。きっと、彼はあたしを泣かさないように、一番やさしい方法を考えてくれている。

考えて考えて、それでもそんな方法なんて、みつからないでいるのだ。

彼をずっと見てきた。だから、そんなことまで手に取るようにわかってしまう。あたしは笑った。笑いながら泣きそうになって、天井を見上げながらひとつ深呼吸した。だから、きっとあたしから、切り出さなきゃならない。

 

「―――ツナさん、ちがい、ますよね」

 

あたしは、注意深く言葉をえらんで言った。できるだけ声が深刻な響きをもたないように。彼の優しい努力を、無駄にしてしまわないように。

 

「――――なにか、いいたいことがあるんですよね、ハルに」

 

 

それで、わざわざ呼び出したんでしょう?巧妙に影武者をたてて自分の行方をくらましてまで。ほかの目を全部そらしてまで、二人きりで会わなきゃいけない理由が、あったんでしょう?

 

 

「・・・うん」

 

全部お見通しなんだね、きみは。さみしげに微笑みながら、彼は小さくつぶやいた。

 

カップにひとくち残ったコーヒーから、香ばしいにおいがしている。とっくに冷めてしまってるはずなのに、テーブルにただよう空気は、最後まで芳しい。照明からこぼれるなめらかな光を指先でなぞるようにして、彼は言った。

 

「ハル、さよならを 言わなきゃいけない。―――俺たち」

 

ちいさな、でも確固とした言葉が、彼の唇から滑り落ちる。うすい唇がひとつひとつ、丁寧に言葉を紡ぎだすのを、そのさくら色が、電灯の燈にやさしく光るのを、あたしは夢の中のようにおもった。ぎゅう、と胸がしぼられる。

・・・じゅうぶん心の準備をしていたのに。苦しくせりあがる気持ちは、あたしの喉を押しつぶして、息ができなくなった。

 

 

 

 

―――あぁ、なのに。

 

こんなときまで、あなたはなんてきれいなの。

 

 

古びた電燈の柔らかな光が、コーヒーカップの縁をそっとなぞっている。店の中はしずかで、ちいさなピアノ曲がくりかえし流れていた。

 

「―――ハルじゃ、・・・だめなんですね」

 

唇をかんで、あたしは下を向いた。

 

「・・・ハルじゃ、そばにいられないんですね?」

 

 

あたしは、一年ほど前のことを思い出していた。今よりずっとばかで、考えなしで、ただ彼に会いたい一心でイタリアへ行ってしまったときのことを。

その時も、なかなか日本へ帰って来てくれない彼に焦れて、引き止める周囲の目を盗み、こっそり組織の本拠地のある都市へと飛んだのだ。その日に彼が戻ってきていることは、おしゃべりな牛のこどもが教えてくれた。あぁ、なんて言って驚かしましょう?きっとツナさんはびっくりする。そのときあたしは有頂天で、どうやって彼の前に姿を現そうか、そんなことばっかりを考えていたのだ。

だから、黒に磨き抜かれたセンチュリーから彼が降りてきたとき、その懐かしい跳ね髪が目に入った瞬間、全部が吹っ飛んでしまった。あたしはなりふり構わず大きく手を振って、彼の名を呼んでしまったのだ。

 

『ツナさん!』

 

その瞬間、世界にひびが入った。

驚いて顔を跳ね上げた彼の姿が目に焼き付いた。その、たった一瞬の隙をついて、耳をつんざく爆発音が響き渡る。土ぼこりが青々と茂った芝生を見る間に多いつくし、あたりに銃弾の雨が降った。湧き上がる鉄の匂いと煙、煙、さざ波のように波打つ地面。足元がめくれ上がるのが見える。

『ハル!―――だめだ、こっちへ!』

とっさに車の陰に体をかがめていた彼が、こちらを見て悲鳴のような声を上げた。そのとき、あたしはいったいどうしていたんだっけ。あまりのことに、目の前が真っ白になっていたのはなんとなく覚えている。地面からぴくりとも動かない、すくんでしまった足の裏で、はぜる火薬が地面を揺らすのを聞いていた。

あぁ、そう。そんな状況なのに、あたしはなんだか、映画を見ているような気分になってしまったんだ。毎日危険なんて一つもなしに暮らして、平和ぼけしてしまった頭は、自分の身体の周りでまき上がる硝煙のにおいを現実のものとして認識してはくれなかった。彼に、と思って選び抜いたマリーゴールドの花束は、一瞬でただの塵になってしまった。この日のために新調したワンピースのすそが燃え、むき出しの足や手がびりびり、ひきつれるように熱くなる。

彼が、こちらに向かって身を躍らせるのが見えた。弾膜の中、真っ直ぐに差し出されたしろい手のひらも。

あぁ、だめ、いけない。だってあなたの後ろから、まっくろな塊が見えるもの。ツナさん、後ろ向いて。あなたの頭にまっすぐ向けられた銃口が見えるの。ハルのことはいいから・・・ツナさん!

だけど、声すら出なかった。土ぼこりで痛む目を瞬くことすらできず唇をふるわせたとき、彼に背中を差し出したのは、彼にずっと付き添っていたセンチュリーの運転手だった。漆黒のスーツが目の前をひるがえり、真っ白に整えられた手袋が、銃弾の中、鮮烈に目の奥にしみこむ。

目の前で、何のためらいもなくボスの盾となった大きな身体が、はねる。4回、5回、雨みたいに浴びせられる鉛の弾に、黒い背広の男のひとは、あやつり人形みたいに身体を痙攣させた。10回、20回、やむことのないマシンガンに、ふるえる白い手袋が、別世界の生き物にみえる。土ぼこりで、あたりは真っ白に染まっていた。ばらばらと頬にしずくが落ち、あぁ雨が、と無意識で触れた指先は、鮮血の赤に濡れた。

 

頭の奥で、耳障りな音が響いている。やすいカーテンを破くみたいな、甲高くて意味を為さない、声。

気がつくと、あたしは叫んでいた。大声で、身も蓋もないほどに。喉が裂ける。一瞬で腰が砕けて、立っていられなかった。身体が震えて震えて、散ってしまう、と思った。

『ハル』

強めの香水の匂いが鼻をおおい、あたしは目を瞠った。あたたかい身体が、視界をさえぎっている。

『しっかり。大丈夫。目をつむって、走るんだ。――――できるね?』

糊の効いたシャツに抱きすくめられ、あたしは首を引き攣らせながらうなずいた。香水の隙間に漂う、彼の肌の匂い。うすい胸の感触。ぎゅう、とふるえる瞼を押し下げると、彼の声の振動だけが身体にひびいた。

 

『いくよ』

 

 

 

その後のことは、よく覚えていない。鼓膜が千切れそうになるほどの爆音の中を、身体中焦げそうな熱の中を、ただ肩を抱くほそい腕にすがって、走った。身体の横を、何本もの矢が穿とうと飛んでゆくのを感じた。頬を裂いて、熱の塊がとぶ。何度も転んで、けれども目をあけることなんかできずに、ただただ走った。

 

気がついたら、真っ黒なセンチュリーの中で、あたしは震えながら丸まっていた。あたりは暗い夜にしずんで、しぃんとしずまりかえっている。エンジンの小さくうなる音が、細かい振動といっしょに、おしりに伝わってきていた。

姿を闇色に染めた木々が、生い茂る葉で周りをおおいつくしている。

『――――ハル』

目をあげると、運転席に座ったツナさんが、じっとこっちを見ていた。闇をのみこんだ彼の眼は、こんなときでもしっとりと濡れ、とてもやさしい。ひゅうひゅうと、隙間風のような音がずっとしていると思ったら、それは自分の喉から洩れる嗚咽だった。

 

『もうだいじょうぶ――――こわい思いを、させたね』

後ろの窓が割れていて、そこから夜の空気が忍び込んでいた。車の中にまで、まだ硝煙のにおいがしみついている。何かあたしは言おうとしたんだと思う。けれど、乾涸びたのどはなんにも言葉をつくってはくれなかった。

上等な革張りのシートが、ただじっと情けないあたしの重みを受け止めてくれている。ひとがしんだ。目の前で。

あたしの、せいで。

お腹の底から、ひゃあひゃあと意味を為さない疼きが漏れて、あたしはまた崩れ落ちた。左側から頭を抱きすくめてくれながら、彼は、今のボンゴレが危険な状態にあること。代替わりで、国が荒れていること。突然由緒ある組織のトップに東洋人が立ったことで、彼が幾万の人間からうとまれていることをしずかに語った。だから、日本には戻れない。大切な人たちには、連絡さえも取れないと。

 

『だから、二度とここにはきちゃいけないよ・・・ハル。』

 

やがて、空をうならせて降りてきたファミリーのジェット機にあたしを導きながら、イタリア最大のマフィアのボスは、消え入りそうな顔で微笑んだ。

 

 

 

 

 

あのときの、あなたの目が。未だに焼きついて、離れないんです。

 

「―――ハル、もっとがんばります。イタリア語ももっと勉強するし、ツナさんのそばにいられるよう、頑張りますから・・・!」

考えるよりも前に、必死の言葉が唇からこぼれた。いま沈黙してしまったら、終わりだとなぜだか思った。ワンピースの裾を握り込んだ指が、膝の上で白くなっている。いやだ。いやです。こんなところで、終わらせたくない。

「じ、自分の身も自分で守れるように、強くなるし、必要なら、銃だって・・・」

 

「―――ハル!」

 

悲痛な叫びが、彼の口から洩れた。びくりと身を竦ませたあたしをみるツナさんは、泣きそうな顔をしていた。

 

「・・・ハル・・ きみは、そんなこと言っちゃいけない。」

 

ひどくかなしい瞳で、かぶりを振りながら、ボンゴレの十代目はあたしの顔をじっと見つめる。きみは、俺たちの住んでいる世界の人間ではないんだ、そう、いわれている気がした。

悲しみが目の奥で爆発した。なんてこと、あなたが、あなたがそれを言うの?

 

「なんで!」

 

「いやなんだ!俺が!」

 

必死の声は、大きな叫びにかき消された。思わず声をあげたあたしに、しんじられないくらいの強い声で、彼はしぼりだした。

 

「きみは巻き込まない。ぜったいに、まきこみたくない。」

 

机の上で、彼のこぶしが筋ばって震えていた。咬みしめられた唇が、色を失っている。あたしはそんなツナさんを、初めて見た。

 

「これは、俺のエゴだ。我儘なんだよ。・・・最後の我儘だと思って、きいてくれないか―――ハル」

 

 

 

景色が水っぽくうるんで、返事が出来なかった。あたしはうつむく。今日は絶対に、無様に泣かないと決めていたのだ。けれどもう、彼をこれ以上説得する言葉なんて、見つかるはずもなかった。

十分わかっていた。あたしなんかが、中途半端な気持ちで足を踏み入れていい場所ではないこと。どうしようもないことが、この世にはあること。一年前、まざまざとみせつけられた世界で、あたしのちっぽけな強がりは粉々に吹き飛んでしまっていた。

どうしたって、彼があたしを連れて行ってはくれないことも。

 

 

綿ぼこりのようにささやかな煙が、カップからひとすじ浮かんで消えていく。店の音楽がクラシック曲に変わっているのに、初めて気づいた。

 

「―――ハル。・・・すこし、歩こうか」

 

どれくらい、そのまま経ったんだろう。ふかい空気をしずかに乱して、彼がそっと椅子を引く。差し出された手に、条件反射のように指が重なると、なんだか知らない人にエスコートされているような気分になった。

 

 

 

色あせた店内を出たとたん、真夏の熱気が頬を打つ。むわりと体中を包むアスファルトの熱は、問答無用で心地よく冷えた肌から、冷気をむしり取っていった。彼は、あたしの手を離さない。あたしは顔があげられない。ふたり、ゆっくりと街路樹が青い影を落とす歩道を、ただ歩いた。

傍からみたら、きっと恋人同士に見えるんじゃないかしら。あたしは少し笑った。皮肉ですね。けど、ハルはそれがうれしい。見上げると、すこし目線の高い位置に、きれいなラインを描く顎がある。柔らかい髪が太陽に透けて、金色に光っていた。シンプルだけれど、ひとめで上等なものだとわかるシャツが、今の彼にとてもよく似合っている。

 

「―――ツナさん」

 

あたしは、彼に問いかける。ん、とこちらに視線をくれるやさしいボスに、小さくつぶやいた。

 

「・・・ハルは、記憶を失ってしまうんですか?」

 

みどりの凶暴な香りをのせた風が、汗をさらってふきぬけた。

彼は、何にも答えずに、ただ静かに微笑んだ。それが、答えだった。

 

 

 

 

色あせた黄色いガラス窓。どっしりとした木造りの扉につけられたカウベル。全然目立たない小さなお店で、けれど出してくれたコーヒーは格別だった。

 

あたしを守って、弾丸の中をかけてくれた彼。急にイタリアへ本拠地を移すことになって、駄々をこねるあたしたちに 『俺だってやなんだけど・・・すぐ、もどってくるから』って、さみしそうに笑っていた彼。

スーツが似合わなくて、苦笑いしていた。マフィアになんて、ぜったいならないと叫んでいた。たくさんの出会いと別れを経験して、「ダメツナ」って呼ばれていた彼はすこしずつ大人になっていった。

いつもいじめられて、涙目だった彼。けれど、誰よりも優しかった彼。

 

 

おかしいと思っていたのだ。少し前から、彼にかかわった人たちの記憶から、「沢田綱吉」に関する記憶が抜けおちてしまっていることを。中学時代に彼と同級生であった人ですら、彼のことを覚えていないのだ。忘れてしまったというよりは、記憶からきれいさっぱり消えてしまった、そういう反応をだれもが、した。

 

「・・・やだなぁ・・・ 忘れたくない、です」

 

優しいメリーゴーランドのように心で回る記憶を、あたしはじっと抱きしめた。彼と一緒に飲んだ、さっきのコーヒーの味。いまでも肌にうっすらと残る、銃弾で焦げた小さなやけどの跡。

 

ずっと、あたしのヒーローだった彼。

 

「―――だってあんなに大切だった時間、ほかに、なかった」

 

喉が震えて、最後はほとんど涙声になった。

 

「―――・・ハル、きみには生きてほしいんだ」

生きて、すてきな人を見つけて。オレみたいなダメなやつじゃなくて、きみをずっと抱きしめてくれるような人を。

 

気がつくと、ツナさんがじっとこちらを見つめていた。ゆらめく陽炎で、輪郭がぼんやりとかすむ。握りこまれたてのひらがじっとり汗をかいていて、彼の手との境界線がまるであいまいになるみたい。

 

 

「それで、ずっとずっと、幸せにくらして。きみに似たかわいい子ができたら、きっとお祝いするから。」

 

ひどいのね、ツナさん。

優しすぎる言葉に、あたしはじっと唇を噛む。ずるい。そんな言い方、ずるい。

 

くやしくなって、あたしは彼の襟首をぐい、とつかんだ。おどろいた彼の顔が、間近でゆれる。

 

「―――じゃあ、最後にキスしてください!ハルに!・・・いいでしょう、ずっと好きだったんだから!

・・・それで、ぜんぶあきらめますから」

 

彼の大きな瞳が、戸惑いで揺れた。至近距離で彼と見つめあうことにたえられず、あたしは強く目をつむって恥ずかしさをごまかした。心臓が早鐘みたいに波打っている。彼が、何かつぶやき、すぐそばで甘いコーヒーのかおりがふっと漂った。

 

まるで映画のマフィアがするみたいに、何人ものレディたちに、こなれた様子でするように。

そんなキスでよかったんだ。それなのに。

 

彼は、まずあたしの鼻に、自分の鼻をぶつけてしまった。おもわず飛びのいたあたしに、「ご・・ごめん!」と鼻を押さえながら、真っ赤になった彼は謝った。

そのまま、伏し目がちな瞳が近づいてくる。赤く染まった目尻が、きれいだな、と思ってみとれていると、軽く頬に当てられた彼の手のひらが、困惑しているのに気がついた。まっすぐ顔が近づいてくる、と思ったら、また彼は失敗した。鼻先がこつんとぶつかって、あたしはそれに思わず吹き出してしまう。

「ご・・・ごめんったら」

しどろもどろで謝る彼に、あたしはすこし、顔を傾けてあげた。今度はうまく唇が重なる。彼の唇は乾いていて、やさしくて。ただ不器用に押しつけられるだけのキスは、コーヒーとうすい汗の味がした。

やわらかいそれが離れていくのと同時に、息をつめていたらしい彼が大きく息を吐き出すのが聞こえた。

 

・・・マフィアのボスよ?

こんなかっこいい人が、こんな子供みたいな、キス。

 

「――――わ、わらうなよ!」

 

肩口に顔を埋め、小さく震えるあたしを、彼がぱしぱしとこづく。多分、真っ赤になってるんだろう。すごく熱い、体温。

 

「――――ハル、」

 

あたしを抱きしめて、同じように肩に顔を伏せて。彼は言った。

 

「俺は、忘れないよ。―――きみが、素敵な女の子だったこと。いつも全力で、精一杯がんばって、俺たちに笑顔をくれたこと。忘れない―――ずっと」

 

さよなら、ハル。

 

ちいさな呟きが、逆巻く人ごみに飲まれて、消えてゆく。背中を躊躇いがちになでて、ふ、とはなれた温かな彼の感触。

 

 

 

街に音が戻ってきた。

車のざわめき。スクランブル交差点の喧騒。横を通り過ぎる人たちは、みんな楽しげにさえずりながら、鳥のようにすりぬけてゆく。

アスファルトに、しずくがおちた。

あたしの涙だった。

下を向いたまま、身体の震えがとまらない。もう限界だった。あたしは、やすいカーテンを引き裂くみたいな声で、泣いた。

 

こなれた様子で、キスしてくれたらよかった。あたしなんて他の大勢と同じなんだよって、みせつけて、きっぱり諦めさせてくれたらよかった。

なのに、あんなキス――――。

まるで、むかしの彼そのまんま、みたいで。不器用でやさしくて、空回りばっかりしてた、あのころと全く変わらなくて。あたしは、泣いた。堰を切ったみたいに、ないた。

 

 

ばかだ、あたし。

あんな愚かなこと、言わなきゃよかった。

 

だって、さっきの彼。あのころのツナさん、そのまんま。

 

これで最後、なんて。諦められるわけがない。

 

・・・あたし、まだ、恋をしている。

 

 

ツナさん。おもわず唇にのせると、その小さくふるえた響きはかけらも残さず、雑踏の逆巻く風の中に消えてしまう。ツナさん。ツナ。あたしは壊れたおもちゃみたいに、だいすきな人の名を何度もくりかえす。
ついさっきまで、この唇がふれていた人の名前。

もう二度と、会うこともできないだろう、初恋のひと。

 

ばかみたい。

最後の思い出に、なんて、頼まなきゃよかった。

 

こんな苦しいなんて、思ってなかった。

 

 

苦しく胸を抱きしめながら、あのひとの消えた人ごみへとにじんだ視線を向ける。絵の具をごちゃまぜにぶちまけたみたいな、スクランブルの色だまりの中には、けれどもう、だいすきな背中を見つけることはできなかった。

 

 

あたしは想像する。彼のいなくなった世界で、いつか頭に、静かな銃弾が撃ち込まれて。何もかも忘れて、あたしはまた、恋をするのだろうか。

そして、いつしか結婚して、なんにも知らないまま ただ、幸せに生きていくのだろうか。

 

そうしていつか、こどもが生まれたとき、病室に届く山のような花束を、いったい誰からかしら、なんていぶかしんで。

どうしてか止まらない涙に戸惑ったり、するのだろう。

 

こんなときこそ、このうるさい風が、止まってしまえばいいのに。

「―――ツナさん」

そうすれば、この涙声を彼が聞きつけて、とんできてくれるかもしれないのに。

 

 

「――――さよなら」

 

さよなら、あたしのヒーロー。

 

 

あたしは渾身の力をもって、踵をかえす。振り向くな、ふりむくな、ハル!

みあげた八月終わりの大空は、どこまでも透き通って、飛行機雲がひとすじ、まっすぐにのびていた。