自分の中で、ずっと鳴り続けているもの。

やさしくて甘くて切ない、音楽。

 

夜の半ば、沢田綱吉は自室の安楽椅子に首を預け、天井を見上げていた。柔らかな上等の夜着につつまれ、風呂上がりの身体は心地よい眠りの準備に整えられている。首筋から、温かな体温と共に清潔なソープのかおりが立ち上っていた。
手のひらの中には、先ほど部下に持ってこさせたホットミルク。ぽったりと丸みのあるマグになみなみ注がれたそれには、はちみつが落とされており、ふぅ、と息をかけるとミルクの中央で金色の帯がくるくる回った。

完璧な夜を迎えるための一式がそろっていた。けれど、唯一、彼の瞳だけが夜を受け入れる準備から遠い所にあった。
らんらんと光る眼と、冴えわたって眠りを拒む頭を持て余しながら、綱吉は溜息をつく。せっかく多忙なボスのために、と優秀な部下たちがそろって差し出してくれた、何もかもから解放された夜だったのに。
綱吉は、すっきりと片付けられてしまった、何もない執務机に脚を乗せ、ぎしぎしと背もたれを軋ませながら、クッションに身を沈める。ビロードのそれは彼の小さな体を受け止めて余りある大きさで、綱吉はだらしなく身体をずらしながら、それにまた溜息をついた。

 

身体は泥のように疲れているのだ。けれど、本来なら簡単に眠りにいざなわれるはずの意識がはっきりとしすぎていて、無理に目を閉じてもにぶい頭痛がおこるだけだった。

原因は分かっている。綱吉は、先ほどから敏感な耳に引っ掛かってくる、僅かな音のことを思った。それは、自分の部屋の、真下―――まだ煌々と明かりのともる、自分の右腕を公言する友人の部屋から、響いてくるものだ。
ほんの微かに、紙をくる音。その上にペンを走らせる音。夜の屋敷はひっそりと陰って、暗く、静かだ。おそらく自分に気をつかっているのだろう、最上階にある自室の周りは、まるでエアポケットに落ちたかのように耳の痛む静寂で満たされていた。じっと息を殺すと、自分の鼓動の音だけが聞こえる。そんな夜の帳の中、今宵は月がきれいだったのでなんとなく開け放していた窓が、こんな音を連れてくるなんて。綱吉は夜の静寂をつたって届く、思いがけない響きにそっと耳をすませた。

普段なら聞こえることもない、ほんとうに密やかで、ちいさな音。階下の銀髪の青年が、立てる音。きっと山ほどある書類を、これからさらに何時間もかけて処理するのだろう、ひっきりなしに紙がこすれる音と、椅子のきしみ、その隙間に、時折――――タン、タタン、と。指先でリズムをとる音がまじるのだ。

自分がよくするように、苛立ちから立てる音とは明らかに違う。何か意思をもって、ひとつの形をとろうと響く、不規則だけれど一定のまとまりをもったリズム。

その音には、聞きおぼえがあった。綱吉はぼんやりと思いかえす。昔、まだ自分がほんの中学生で、彼といっしょに馬鹿やりながら、毎日を生きていたころ。彼の指は不意に、机の上を踊ることがあった。それはほんの会話の合間や、彼が何かを考えているとき。何かの拍子に無意識に出てしまうらしいそれを指摘され、『ぁ・・・癖・・なんっスよね。―――スミマセン』と顔を赤らめていた彼。

 

懐かしい日々を思い返し、綱吉は深く、溜息をつく。そして何かを考えるように強く目をつむると、勢いをつけて椅子から跳ね起きた。

 

 

深夜に突然、部屋を訪ねてきた最愛の君主に、獄寺は心底驚いた。つい先刻、何もかもの仕事を奪って、半ば無理矢理 寝室に押し込んだはずだ。ここ数カ月、立て続けに大きな交渉事をまとめてきたこの組織のボスは、自分の身体にはとんと無頓着で、周囲をはらはらさせるのが得意だ。つい先日も、ひとつ、壊滅状態にまで追い込んだ麻薬密輸ルートのあおりをうけて、降って湧いた雑務を抱え込み、真っ青な顔で倒れそうになったところだった。
渋る彼に、「部下に示しがつかない」と至極まっとうな理由の休暇を押しつけ、それでも山のように重なるどうしても彼の手を煩わせねばならない仕事と、彼の烈火のごとくの反対をくらい、ならばせめて一日だけでもきちんと睡眠を、と懇願して休息を取らせたのだ。

あれだけ派手な言い合いをしてようやっとベッドへ向かってもらえたと思ったのに、件のボスは大きな瞳を瞬かせながら自分の前に立っている。その目に全くまどろみの陰りが見えないことに、獄寺は内心困り果てた。

先ほどは彼の体調を気遣うあまり、随分と厳しい口調で彼を責めてしまったものだが、もともと彼に上からものを言えるような立場ではないのだ。それに、敬愛する相手と口論するのは、出来る限り避けたい。さぁ、何と言ってこの愛しい人を眠らせればいいのだろう。考えながら獄寺は、思わず自分の手のひらが目の前のちいさなボスの頭に伸びそうになっていることに気付いて、慌てて手を引っ込めた。

――――何してる、俺。それじゃ、まるで子供を宥めるみたいじゃないか

条件反射で、ふわふわとゆれる薄茶色の髪を撫でようとしていた自分に、獄寺はひどく狼狽する。それほど、今自分の目の前に立つ男は、ひどく子供っぽく見えた。ゆるいリネンのシャツを身に着け、手の中には大きなマグカップ。髪がおりているからだろうか。もともと東洋人の気質で、幼く見られがちな彼は、近頃では彼の家庭教師や兄弟子を見習って、公の場では髪を掻き上げて整えていることが多い。それが整髪料も落とされ、ふさりと額にかぶさっているのに気付き、獄寺は懐かしい感覚に思わず表情をゆるめた。

―――なつかしい。・・・昔の、沢田さんみたいだ

まるで、昔みたい。初めて会った、中学校の時みたい。つんつんと跳ねる豊かな髪に、ふと、さまざまな感情が疲れた頭の中で渦巻く。獄寺はただ どぎまぎしながら、綱吉を見つめた。

「ごめんね、邪魔して。・・・ねむれないんだ」

ふぅ、とまた困った溜息をつきながら、綱吉は自嘲気味に微笑んだ。指先でドアの外を指さす。

 

「よかったら、ちょっと付き合ってくれない?」

 

 

誘われるがまま、獄寺は静かな廊下を歩く。高級な絨毯が足音をすって、夜のアジトは壁に掛けられたランプのじりじりと焼ける音しか聞こえない。そういえば、人の気配に敏感なこのひとを煩わせまいと、近衛兵はほとんど払ったのだった。獄寺は頭半分で思いながら、しん、と静まり返る屋敷の中で、ぼんやりと前をゆれる白シャツをおいかけた。

どこへ行くのかと思えば、綱吉の足はアジトの新しく増築された棟へとまっすぐ向かっている。なめらかな石造りの扉を懐から出した鍵で開くと、そのまま暗闇の広がる大部屋の中へと、彼は足を踏み入れた。

そこは、おおきなコンサートホールになっていた。磨かれたアーチ状の美しい木材が、頭の上でひとつに合わさり、ドームを形作っている。ひやりとした、真新しいニスの香り。

ボンゴレの実質指導権を握っているヒットマンは、こういう高尚な娯楽に金をかけることを惜しまない。アジト増築の際、そこにホールができると聞いて、綱吉はいったい何故わざわざそんなものを、もっと他に投資すべきことがあるだろうに、と咬みついたものだ。ソファに脚を投げ出してエスプレッソを飲んでいた黒髪の家庭教師は、そんな教え子に流し目をやり、ふ、と鼻先で笑った。

『じゃあ聞くが、お前は自分の国の文化もろくにしらねェ奴と政治の話ができるか?』

オペラに管弦楽、世界規模のフィルハーモニックにコメディア・デラルテ――――今のお前に、この芸術の都で風俗を語れるとは思えねェな。胸の上に置いたボルサリーノをもてあそびながら、正確な狙撃の腕だけでなく、演劇や絵画、ひいては数学や物理といった事柄にまで精通する最強のヒットマンは、美しい顔をゆがませて不敵に笑む。いいか、上に立って国に関わる人間は、脇道の知識をどんだけ持ってるかで価値が決まる。だからお前も、今のうちに余分なことをできるだけ教わっとけ。

ギャンブルや女遊びを勧められないだけましかとは思うが、それでもリボーンの帝王学を実践するのに、ボンゴレは結構な金を割いているはずだ。このホールも例外ではなく、最高級の音響設備と防音壁を兼ね備えた優美な空間は、夜のとばりの中 飴色の光を湛え、胸のすく木の香りを漂わせていた。

そして、その舞台の真ん中――――静かにたたずむ、おおきな塊が、ひとつ。

わずかな照明の中でも見える、その白い塊に迷うことなく近づくと、綱吉はそれを覆っている上質なシルクの布を引き下ろした。

 

そこに現れたのは、一台のピアノだった。とろけるような漆黒の体が、ダウンライトの下で星のように輝いている。あたりの静寂を飲み込んで、しずかに佇む様は、気位の高い貴婦人にも見えた。ただ、驚くべきはその、大きさだ。通常のグランド・ピアノよりひとまわりも、ふたまわりも大きなその体。漆黒の星空は、流れるような曲線を横たえ、舞台の上で圧倒的な存在感をみせつけていた。

獄寺は息をのむ。実際に目にしたのは初めてだ。このボンゴレのコンサートホールが完成されたことを祝って、懇意にしている隣国の権力者から贈られたもので、世界で数えるほどしか存在しないといわれている、幻のピアノ――――イタリアの宝石、と呼ばれるそれには、たしか想像をはるかに超える値がついていたはずだ。

そしてその、脇腹。そのピアノが稀代の名品であることを証明する銘の隣に刻まれる、うつくしい飾文字。

そこには“ボンゴレ十世の繁栄の為に”と流麗な金文字で記されていた。

数多くのピアニストたちが愛し、しかしそのうちのほとんどが、手も触れることのできないまま死んでゆく、そんな芸術品をこのホールは有しているのだ。今までボンゴレが受けてきた献上品の中でも、価値・値段共にトップクラスに入るそのピアノは、そのまま今のこの組織の力の大きさを表すものだった。
綱吉は、つややかに磨き抜かれたその流線型を、指ですらりとなぞると、懐から金色の細工の施された鍵を取り出す。ピアノの命である鍵盤を守る、固いシェルターのような蓋の中央に、彼がそれを指し込もうとしているのに気付き、獄寺は慌てて声をあげた。

「十代目!・・・それは・・・」

綱吉は視線をこちらへよこすと、動じることもなく答える。

「なんで?―――これは、俺のものだよ。どうしようが、俺の自由だ」

それは、そうだが・・・獄寺は思わず口を噤んだ。この美しい芸術品は、数週間後に控えたボンゴレを中心とするファミリーの総会で披露されることが決まっているのだ。イタリア最大の、聖人の休日に合わせて開かれるその大規模なパーティは、ボンゴレの傘下だけで集まるファミリーは200を超える。価値あるものは、それに相応しい場所でデビューさせてやらなくちゃな。赤ん坊の意向で、華々しい舞台まで厳重に封印されることとなったピアノは、その大きな祭典で耳の肥えた観客たちに向け、最高のオーケストラと共に、高名なピアニストの手によって演奏されることになっていた。舞台上での綱吉の挨拶から、ピアノを初めて開く手順までが、事細かに決められていたはずだ。

「いいんだ。今、見たいから」

なにか文句ある?と言わんばかりの綱吉に、獄寺は行為をとがめるかどうか迷った。本来ならば、ファミリーの決め事は絶対で、メンバーはそれを破ることは許されない。トップの意見がころころ変わる混乱を避けるため、それはボスにおいても例外でない。しかし、

 

―――だって、これ・・・ファツィオーリ・・

 

見たくないというのは嘘になる。伝説のピアノを、しかも、こんな間近で。ピアノ弾きなら一度は憧れる僥倖に言葉を迷っていると、そんな獄寺に に、と笑いかけ、綱吉は迷いなく鍵を差し込んだ。

かたん

空気を軋ませ、どっしりとした蓋が、引きあげられる。あらわれた柔らかい白と、目がくらむほどの鮮烈な黒。すべてのパーツが手仕事で造り出される繊細な芸術品は、こぼれおちる照明を受け、きらきらと輝いていた。

「へぇ・・」

動けない獄寺を後目に、天板を跳ね上げた綱吉は、中を覗き込んで感嘆の声を上げる。内部にはしる木目が、比類ないほど美しい。そのむかし、家具職人が発端となってつくられたという優美な楽器は、美術品と呼んでも差し支えない佇まいで、見る者を圧倒した。

「反響板まで白いよ…見て、獄寺くん」

無邪気に袖を引かれて覗いてみれば、珍しい白木の一枚板が、ちかりと光って暗闇に慣れた目を焼いた。鍵盤一つ一つにつながる弦に、寸分たがわぬ距離で寄り添う、上等な綿を織り固めたハンマー。輝く木目の腕に抱かれた空間は、繊細で精密であるのに、どこかあたたかく人間味を帯びていて。人の心を眺め見ているような不思議な気持ちになる。

「プラネタリウムを覗いてるみたい―――不思議」

ね、と目配せされ、獄寺はごくりと喉を鳴らした。無意識で息を詰めていたらしい、口の中がからからに干からびていた。

「え、え―――すごいっス。・・・こんなにきれいなピアノが、あるなんて―――」

満足です。見せてくださってありがとうございます、十代目、と頭を下げた獄寺に、綱吉はきょとんとした表情を向ける。

「なに言ってんの・・・弾くんだよ、きみが」

さも当然のごとく発せられた言葉に、獄寺は切れ長の目を零れ落ちそうなほどに見開いた。

「ピアノは、弾かなくちゃ――――そのために、きみをよんだんだ」

にこにこと笑いながら、綱吉は猫のようにピアノの上に体を預けた。ホットミルクがこぼれやしないかと、獄寺は頭の隅でヒヤリとする。

・・・って、違うだろ・・・!今、この方はなんて仰った?オレに弾けって?

この、「イタリアの宝石」を?

思わず声を詰まらせ、目を白黒させる右腕を余所に、ボンゴレのボスはつかみどころのない笑顔を浮かべながら、身体をピアノの脇へ滑らせる。そのまま、長くのびた漆黒の脚に背中を預け、くずれるように床へとへたり込んだ。

細い腕をピアノに絡ませながら、無邪気に獄寺を見上げる。

 

「何か弾いて?獄寺くん」

 

『何か弾いてよ、』

 

不意に、懐かしい思い出がフラッシュバックした。放課後の音楽室、窓から差し込む、茜色の夕日。

 

むかし、綱吉はよく獄寺のピアノを聞きたがった。人気のなくなった音楽室に忍び込み、鍵盤がクリーム色に日焼けしたピアノで、小さなボスに望まれるまま曲を連ねた、あの懐かしい日々。今から思えば些細でくだらない、けれどあのころの自分たちにとっては精一杯の毎日を過ごしながら、そんな中でつまらないことがあったとき。悲しいことや、暗い気持ちになる出来事があった時。決まって綱吉は獄寺のピアノをせがんだ。

そんなときいつも、綱吉は床に座り込んで、じっとピアノの腹に頭を押し当て、獄寺の奏でる音に聞き入っていた。

獄寺は、そんな綱吉を見るのが好きだった。

誇らしい気持ちはあった。ボスに必要とされていることに、この上ない喜びを感じながら、獄寺は頬を夕日色に染め、小さな主君に報いようと必死で指を動かしたものだった。

 

けれど、今回は―――なんと言っても、音楽室のピアノとはわけが違う。

 

「・・・で、でも・・・」

獄寺がしどろもどろに言葉を濁すと、音が聞こえそうなほどおおきく頬を膨らせたボスは、足で床を駄々っ子のように叩いた。

「『でも』はなーし!あんまりでもでも言ってると、ボス命令を使っちゃうよ」

あんまりそれ、言いたくはないんだけどさ。冗談交じりにうつむいた横顔が消え入りそうに寂しげで、獄寺は言葉をなくす。

 

「さ、はやく」

 

むかしから、ボスの言うことには逆らえない性分なのだ。それ以上に、この人の笑顔を見るためだけに、今まで生きてきた。瞳を輝かせた綱吉に心の中で小さく白旗をあげると、獄寺は目の前の宝石へと向き直った。







 後編