オン ザ ベランダ・サンセット










"サクモさんに似ている"


それが、彼――はたけカカシに出会ったときの第一印象だ。



木の葉の里には、黒以外の色を纏う忍びは殆どいない。
それは、虫や賢い動物たちが、自分の姿を自然の中へ同化させてしまうのと同じだろう。
閉鎖された土地の中で次第に濃くなる忍びの血がそうさせるのか、皆一様に黒に近い髪に黒い瞳、大地に溶け込みやすい肌の色を持ち、そのためか、この里は時々奇妙に歪んで見える。

そんな中、サクモさんやオレのような青い目を持つ忍びは珍しかった。

はたけサクモ。すらりとした長身と刃のような銀の髪に、少し藍の混じる蒼い瞳。
彼は戦忍としてとても優れた人物で、オレの立場から見ても傑出した忍びだった。



まだ木の葉が若く、オレたちが先代の築いた里を護るのに必死になっていた頃。
その頃、彼は北方の前線部隊の指揮を執っていて、そのため、実際に肩を並べて戦ったことは数えるほどしかなかった。
けれども、それだけでサクモさんの力量や器の大きさは充分肌で感じ取れたし、だからこそ自分が火影を継いだ後、彼に大部隊の指揮官としての立場を引き受けてもらったのだ。

結果、里で顔を合わせはするものの、同じ戦場に立つことは殆どと言って良いほどなくなった。
それでも、その目立つ髪や目の色から、オレたちはよく一括りにされ「もてるだろう」なんて同僚からからかわれたりした。


そんなときでも、サクモさんは、ただ静かに、笑っているだけだった。

オレは、馬鹿みたいに青いだけのオレの目と違って、北の大きな海のような、深く 憂いを湛える、つめたい彼の瞳がいつもとても羨ましかった。



カカシはサクモさんからそっくり、その美しい目を受け継いでいた。
目だけじゃない、けぶるような銀髪も、その白く、いっそ忍びには不向きなほど滑らかな肌も、全て。
カカシと初めて出会ったのは、偶然、オレがサクモさんの家を訪ねたとき一度きりで、そのときカカシはまだとても幼かったのだけれど、オレは彼があまりにもサクモさんと瓜二つなので驚いて

「凄いね!お父さんとそっくりだ。いいね、カカシ」

と感嘆して言った。驚く彼の、まだオレの腰にすら届かない小さな頭がいとおしくて。
なんだかとても嬉しくて。

「君もきっと、お父さんみたいに強くなるよ」

と、彼のまだ柔らかい たっぷりとした銀髪を撫でた。




それを面映そうに見ていた、サクモさんの顔。
オレの言葉に、擽ったそうに、嬉しそうに破顔した まだ忍びでは無かったカカシ。












それらは、まるで 昨日の出来事のようにはっきりと思い描くことができるにも拘らず、実際はもう手の届かない所で「思い出」となりかけている事柄だった。
サクモさんはあの痛ましい事件で命を落とし。

そして、カカシは7歳になった。


異例の速さで中忍へと昇格した彼は、父親の流れるような戦闘スタイルも、戦いに関するセンスも余す所なく譲り受けていた。
まだ幼いながら、強く、そして美しい。
「白い牙」と形容されるサクモさんの舞うような得物の扱い方は、カカシの中にしっかりと根付いていた。もう大人にも引けを取らず、幼くして高い地位を手に入れたカカシ。
彼は8歳になると同時にオレの率いるスリーマンセルチームへと、配属された。




―――だが、久し振りに出会ったカカシには、驚くほど表情がなかった。その変化にオレは驚いた。

「色のない子だな、」というのが、スリーマンセル初顔合わせの時の、オレの第一印象だ。

どんな人間でも、感情が揺れ動く時に何かしら、色がこぼれるものだ。
例えばそれが、ひっそりと押し殺されたものだったとしても。制御できない微妙な心の揺れは、閉ざしているはずの扉の隙間から、じわりじわり、と滲み出てしまうものなのに。
カカシには、全くといっていいほど、それがなかった。その静けさは、他の元気な二人の子供たちの中にいて一層際立ち、オレは思わず、生前のサクモさんを思い出した。
以前より少し、けれどもオレからしてみると随分、伸びた彼の背は、それでも他の二人にほんの僅か届かなくて。それでも小さな背筋を伸ばし、あの美しくつめたい、海のような憂いを湛えた瞳でじっと周りを見据えているカカシは、奇妙に子供らしくない子供だった。
あの時、オレの掌の下で笑った彼の面影は、どこにも残っていなかった。








例えばそれは、朝の色の無い空気のあり方に、とても良く似ていた。
それも、冬の朝、ふと一人で目覚めた時に感じる、凍りつく一歩前の空気のような。





夕刻、木の葉の商店街から少し離れた、古びた建物の犇めく一角に入る。黒ずんだ白壁や、朽ちかけた鉄骨がよく目に付く、そんな寂しい場所の片隅。
小さな白いアパートの3階が、カカシの家だった。

サクモさんの死後、何を思ったか、大きくは無いが重厚な造りだった立派な家を売り払い、自ら望んで一人その場所へと越したカカシは、夕暮れ時になると必ずベランダに出て、ぼんやりとどこかを眺めている。

通りにごく控えめに張り出した、おもちゃのように小さなベランダは、夕日をうけて真っ赤に染まる。カカシはその小さな空間に座り込み、まだ小さな頭をことり、と柵に預けて、ただぼんやりと 通りの向こうを見ているのだった。

その目は何を映すでもなく、まるでよく出来た人形のように だらりと手足を柵に絡めて。
カカシはいつも、ふっつりと気配を絶って、空気すら動かすことの無いかのようにそこでじっとしているので、通りの人間も 注意して見ることが無ければ、彼に気づくことは出来なかっただろうと思う。
彼の小さな顔に被さる銀髪が夕日を孕んで、燃え立つように赤く染まる。白い頬も、短い丈の服から伸ばされるまだ細い 剥き出しの手足も。
そして、あの北の海を思わせる、薄青色の瞳も。

全てを赤く染めあげて、カカシは、じっと何かをみている。通りを飛び越した 向こう側を。


そこから何が見えるのかは知らないが、彼はいつも、視線を遠くへと投げて、夕暮れ時のささやかな時間をそこで過ごすのだ。


カカシの姿は、その若さとも相まって、いつも 誰も寄せ付けないような冬の朝の空気をオレに思わせた。
冷たくて色がなく、よそよそしい。そのせいか、朝の空気を纏う彼がそうやって大人しく夕日に染まっていることに、何故だか不思議な違和感を感じたものだ。


それで、オレは彼から目が離せなくなってしまった。




誰の胸の内にも、不用意に踏み込んではいけない領域というものがある。サクモさんをあのような形で無くしてしまったカカシにとって、その胸に巣食う寂しさや憤りは、どれほどのものか。

彼は確かに子供らしくない子供だったが、それだけだった。 子供らしいきかん気で、任務を妨げることも無い。寧ろ従順すぎるほどに、要求された事柄全てを受け入れる。
スリーマンセルもまだ組み上がって間もないとはいえ、やたらと突っかかる元気なオビトや、それを気にして頻繁にカカシに目を掛けているリンに対し、そこまで感情を伴わない態度を取れるものなのか、と思えるほど、カカシは全てを人形のように受け入れ、流していた。

低ランク任務の多い今の状況で、最も妨げになるのではないかと危惧していた 突出した才能をもつカカシの存在は、彼のその淡白とも言える従順さのおかげで、指導する側としてはとても楽なものだった。





不用意に人間の心に、踏み入ってはいけない、という事を、オレは知っていた。
本意を言えば、彼の閉ざしがちな心を、もっと開いて欲しい。そうすればチームワークを知ることも、それがどれだけ任務遂行の上で重要なことかも解る。けれど、今はきっと、その時期ではない、ということもオレはぼんやりと感じていた。

別に任務に支障があるわけではない。まだ大丈夫だ。


きっといつか、その「時期」がくる。
それまでは敢えてこの手を伸ばさず、見守っていよう。そう思っていた。






だから、オレはベランダの彼に小さく声を掛ける。「カカシ、」と。小さく、ごく控えめに。

そうするといつも、カカシは瞬間、夢から覚めたような顔で瞬きを数度繰り返す。彼の夕日色だった瞳が、みるみる透き通って凍ってゆくのを、オレは見守る。
そして、彼は人形のような静けさでこちらに視線を落とす。だらしなく鉄柵に絡ませた腕を、ほんの少し緩ませて。「せんせい」と言い、それから僅かに、会釈する。




それで、終わりだ。

彼はまた、夕闇に染まる一時の空間に、その身を投げ入れる。そうすると、もうこちらの声は彼には届かない。




もしかしたらとっくに、オレが話しかける前から、彼はオレの気配に気付いているのかもしれなかった。けれど、オレが声を掛けるたび、彼はいつもそのスタイルを貫いた。
オレは彼が自分を認識する時の、夢から覚めたような顔が好きだった。自分の声で、彼がこちら側に戻ってくる、という感覚。


だからオレは、頻繁に夕暮れの通りを訪ねては、カカシに声を掛けた。
今はまだ時期ではない、けれどきっといつかこの手を伸ばして彼を救い上げてみせる、 そう思いながら。













ある日、オレは不意の思いつきで、貰い物の茄子と秋刀魚を手土産に、カカシの家を訪ねた。
夕暮れのすこし前に。

彼の家を訪ねたことはそれまで一度としてなく、そのため少し緊張しながら、小さな部屋のチャイムを押した。
夕焼けが薄く、ドアの並ぶ細い廊下を照らし出していた。

あるいはそのドアが開くことも無く追い返されるかもしれないと予想していたので、薄い扉がおとなしく開かれたときには少しばかり驚いた。
気配を殺していなかったのでドアを開ける前から判っていただろうに、それでもカカシは、外に立っているオレを見て、驚いた顔を見せた。
オレが手にしたビニール袋をカカシの目の高さに持ち上げてやり、「たくさん貰ったから、おすそ分け。好きだったよね?」と首を傾げると、カカシは逡巡した後、ドアを大きく開けて「どうぞ」と言った。オレにはこれも意外だった。




初めて入った彼の部屋の中は、がらんとしていた。彼自身を見ているかのように、表情の無い、ただただ広い空間だった。
いらないもの全てを削ぎ落とした部屋にはびっくりするほど物が少なく、必要最低限置かれる家具も、神経質ささえ感じるほど寸分違わず揃えられ、整然と並べられていた。

何を飾られることも無い、ただ大きな白い壁に、オレは少し背筋が凍る。




ベランダに夕焼けが落ちていた。
また今日も、カカシが通りを眺める時間がくるのだ。

赤く熟れた太陽の影は、滲むようにその面積を広げ 小さな部屋の中にも手を伸ばそうとしていた。
窓の片隅で、不器用に干された洗濯物が風に翻っていた。それを見て、オレは何故だか泣きそうになる。




ふと、カカシがいつも何を眺めていたか、気になった。

この夕焼けに染まるベランダから、一体何が見えるのか。 恐らくそれは、通りを歩く幸せな家族連れの姿かもしれない。ベランダから丁度覗ける窓の中の、温かな家庭かもしれない。

――それを見て、彼は一人、この寂しい部屋で涙を落とすのだろうか。



胸を締め付けられるような気持ちになり、オレは少し唇を噛む。
もっと早く、手を差し伸べてやるべきだったのかもしれない。彼を、救ってやるべきだったのかもしれない。




オレは、腰を屈めてみる。カカシと同じくらいの目の高さにまで身体を折り曲げると白い部屋の壁は一気に伸び上がり、例えようのない不安にオレは襲われた。

そのまま、ベランダへと続く扉へと手を掛ける。
自然と強ばる身体を無理に動かし、

思い切って扉を、開けた。











真っ赤な世界が そこにあった。


赤い、赤い。手摺も、薄ぼんやりと汚れた白い漆喰の壁も。今し方開け放したガラスの扉も、そして、自分の体でさえ。全てが眩しいほどの西日に染まり、網膜を熔かすそれは、全てのものの境界を奪い去った。
自分自身も、小さなベランダも。全てが赤に飲み込まれ、赤に溶け出し、


そしてオレは、言葉を失った。






そこには何も無かった。
きっと何かが見えるのだろう、と思っていたベランダの向こう側には、ただただ真っ直ぐに連なる、高い白壁がそびえていた。
それは最近建てられた、大人のための娯楽施設だった。表の大通りに面した部分は派手な装飾で人目を引くその建物も、こちら側から見えるのは、白く大きいだけの、連なる壁、ただそれだけだった。


その向こう側なんて、見えなかった。








「ひとは、朝に生まれて、夜に死ぬ」



呟かれた静かな声に、はっとして振り返る。
人形のように整った面立ちをしたカカシが、その細く小さな腕に、ぎこちなく入れたお茶を乗せ、立ち尽くしていた。
外一面に広がる壁の照り返しを受けて、部屋の中は苦しいほどの真紅に染め上がっている。大きな部屋の真ん中で、色の無いカカシの身体は、すっかり赤に侵食されていた。髪も、肌も、小さなその手足も、そして、目も。境界を無くして燃え上がる彼に オレは息を呑んだ。

彼が躊躇いながら差し出してくる湯飲みを見、あぁそう言えば、初めてカカシに会った時もこうしてお茶を出してくれたっけ、と頭の片隅で思う。



「人間は、一日の内にその一生を終える。毎日。起きた時に生まれ、眠るのは、死。
昼に生気から死気に転じて、後は死に向かって少しずつ気の力は弱くなっていく。・・そうでしょ?」

夕日に溶けるカカシが、ゆるりとオレの横に並び立つ。赤く染まる銀髪が光を弾き、まるで炎を纏ったように見える。

それは、オレが彼らに教えた事柄だった。
気の流れが1日の中で変化する事を理解させるための、
忍びなら誰もが知る、事柄だった。



カカシが呆然とするオレを見て、少し、笑った。



「少しずつ、死んでいくんだ。こうして 夕日と一緒に。」




ねぇ、せんせい。
どうして来たの?






カカシが 指先に乗った夕日の欠片を、そっと握りつぶす。目を蕩かすようだった地獄のような夕日は、緩やかにその強さを失い、静かに夜が忍び寄ろうとしている。

いつの間にか、屈めた背中は、伸びていた。
けれど、大人の身長を以ってしても猶、その白い壁は高く、高く。その向こう側を、窺い知ることは出来なかった。


世界はそこで、終わっていた。














「せんせい・・・」


少し驚きの色を滲ませたカカシの声が、すぐ耳元で聞こえる。
ごとん、と湯飲みが床に転がる音が響いた。


その時の気持ちを、何と説明したら良いかわからない。オレがいつでも手を差し伸べられると思っていたカカシは、そんなものをとっくに超越した場所で、一人で消え去ろうとしていた。
涙すら見せず、凍りついた心を抱えて。
「いつか」「きっと救い上げてみせる」なんて。なんとオレは傲慢だったんだろう。彼はもう、オレの考えも及ばない遠い所で、ただ一人、ひっそりと死を待っていたのだ。 夕日に飲み込まれ、毎日彼は静かに死んでいたのだ。

恐ろしくて、自分が腹立たしくて、オレはぶるぶる震えながらカカシを抱き締めた。
夕日から彼を奪い返すように。

彼はとても痩せていて、オレの手の下で華奢な肩甲骨が軋んだ。




「カカシ、君はもっと罵っていい。オレたち大人を。君のお父さんを奪った、この里を。
オレを殴ってくれていいんだ。すまない、カカシ・・・」


吐き出した自分の声は、涙に濡れて喉で何度も詰まった。

カカシは身動ぎもしなかった。ただ困ったように立ち尽くしている。
視界の端で所在なげに揺れる 小さなその肩に、オレを突き飛ばすことも無いその優しさに、オレは途方に暮れて唇を震わせる。





「せんせい。オレを、哀れまないでよ。」


ぽつり、カカシが呟く。
その小さな手が、おずおずとオレの背を撫でてくるので、オレはもう、涙を堪えることができなかった。







「すまない、カカシ・・・不甲斐ない大人ばかりで、ほんとうに、
ほんとうに、すまない・・・」





馬鹿みたいにカカシの細い肩に縋って嗚咽しながら、オレは顔を上げることが出来なかった。

不甲斐ないオレを目の前にしながら、カカシは楽しそうに、ふふ、と笑う。


「・・ひょっとしてオレ、今 火影様を泣かせてる?」


凄いね、オレ、と小さく笑うカカシに、胸が詰まって。





ただ彼の背を、強く強く掻き抱いた。